2025年03月08日
おばさん一人旅のススメ(対馬・壱岐編)(7)
こんにちは。今日も楽しいマキオカです。
ジェットフォイルで博多港へ向かう。
私の旅のスタイルは事前にあまり調べていかないスタイル。
ざっくりとした情報だけで旅に行き、後から調べる。
旅の前にしっかりリサーチして「あー、これこれ!」と言う人もいるが、わたしの場合「あそこで見たあれはこういうことだったのか」という感じが好き。
いや、別に自分の横着を正当化しているわけではありませんよ。
・・・ホントですってば。
で、そんなわたしがこの旅で好きになった歴史的人物がいる。
それは藤原隆家。
藤原隆家といえば、平安時代に貴族社会の頂点に立っていた藤原道長の甥である上に、一条天皇の皇后定子の弟という恵まれた身分の貴公子だ。
『大鏡』に「世の中のさがなもの」(喧嘩っ早い荒くれ者・世に知られたツッパリ野郎)と書かれた人物でもある。
わたしが知っていた彼のエピソードは以下のもの。
兄の伊周から、“花山法皇が自分の恋人のもとに通っているのでなんとかして欲しい”と相談を受けた隆家は、お抱えの武者をその女性のもとに向かわせて花山法皇一行を襲撃し、法皇の衣の袖を弓で射抜いてしまう。
花山法皇は無事だったものの、噂を聞き付けた道長は、この騒動を利用して政敵であった伊周・隆家兄弟を左遷した。
この話は、『栄花物語』に書かれたものであるが、隆家はとにかく無頼派の貴族であったのだ。
今で言うパリピの御曹司で、怖いもの知らずのイケイケ野郎って感じですな。
この隆家が何故か「刀伊(とい)の入寇」が勃発した時に、迎え撃つ総司令官となっている。
以前も書いたけど、「刀伊の入寇」は国境の島である対馬と壱岐に50隻もの賊船が来襲し、各地で放火や殺人を繰り返した末、博多への侵略を試みた事件であり、壱岐では148人が殺され、239人は捕虜として連れ去られた。
生き残ったのはわずか35人に過ぎなかったといわれている凄まじい事件。
そんな歴史的な大事件が起こった九州の太宰府に、何故か隆家がいたという歴史の不思議。
実は、ちょうどその頃隆家は目を怪我し、九州の大宰府に宋の名医がいると聞き、大宰権帥(だざいのごんのそち)への任官を望んで聞き入れられていたというのだ。
これぞ天の采配!
凄いな、神様。
残忍な侵略行為を行う正体不明の軍団に、対馬、壱岐、北部九州沿岸の人々は怯える。
賊来襲の報を聞くやいなや、隆家は自ら軍勢を指揮して博多の警固所に向かい、味方の士気を高め九州本土で賊を迎え撃ったが、隆家らも苦戦を強いられる。
刀伊は警固所に押し寄せ、筥崎宮(福岡市東区)に放火しようとしたが、その目論見は失敗に終わり、刀伊は対馬などに攻め込んでから、約1週間で撤退を余儀なくされた。
隆家は大宰府官人だけでなく、現地の豪族の協力により見事に刀伊を撃退したのである。
隆家、キミ、九州太宰府なんてところに突然現れて大活躍って・・・。
人間、苦労にさらされると渋みが増して一皮向けるって本当なのね。
知らない間にすっかり渋い男の中の男になったんだね。
おばちゃんは嬉しいよっ!(って、あんたは親戚か?)
ところが、刀伊の入寇の撃退後には、恩賞をめぐってひと悶着があった。
第一報から1週間後、大宰府にいる隆家から戦闘の終結と、勲功者の名前を列記した報告書が届いたが、公卿たちの反応は鈍く、恩賞に預かることができたのはたったの2名。
それも隆家と親交が深かった藤原実資(ふじわらのさねすけ)の献言があってようやく実現したものだった。
その後、高麗が日本の拉致被害者約270人を救出し、その送還のために日本へ使者を派遣したが、朝廷は使者をスパイだと勘ぐり、土産を持たせて早々に帰国させようとしたようだ。
非礼な対応に終始した朝廷に対し、隆家は自腹を切って高麗へ金300両を送ったと『大鏡』には記録されている。
自腹でお金を送るとか、その他の人にも褒章を与えるとか、お金に頓着しない感じがイイ。
やっぱりお育ちやお家柄がいい人は違うって感じ。
「若様、すっかり立派になられて。ジイは嬉しいですぞ」とかいう爺やがいそう。
戦後処理を終えた隆家は都へと戻ったが、自らは何の恩賞も要求することなく、官位も中納言のまま生涯を終えたという。
それもまたよし!
「刀伊の入寇」という異民族による襲撃事件を見事に阻止した隆家の名は、九州で語り継がれていく。
若い頃、一緒に暴れ回った。兄の伊周の嫡男の道雅は、荒くれて子孫も残さなかったのに対し、隆家の家系は大臣こそ出さなかったが、明治維新まで続いたという。
隆家ってこんなスッゴイ人生を送っていたんだね。
大臣になれなくても、そりゃ日本を守った人物として語り継がれるよね。
カッコよすぎじゃない?
隆家。
もうね、惚れますわ。
やっぱねえ、お育ちがいい無頼派っていうところもいいよね。
きっと隠せない上品さがあり、それでいて稚気があるっていう大好きなキャラ。(知らんけど)
惚れてまうやろ!
隆家は権力者の道長に対して一歩も引かない度胸でいろいろなエピソードを残し、道長も一目置いていたという。
民を守るため、国を守るため、果敢に戦った壱岐のヒーロー隆家は、わたしの胸に熱い足跡を残したのだった。
気がつくと船の窓からは博多の煌びやかな港の景色が広がっている。

「頑張ってくれてありがとう、隆家!ありがとう、名もなき兵士達!」とつぶやいたわたしなのでした。
つづく
ジェットフォイルで博多港へ向かう。
私の旅のスタイルは事前にあまり調べていかないスタイル。
ざっくりとした情報だけで旅に行き、後から調べる。
旅の前にしっかりリサーチして「あー、これこれ!」と言う人もいるが、わたしの場合「あそこで見たあれはこういうことだったのか」という感じが好き。
いや、別に自分の横着を正当化しているわけではありませんよ。
・・・ホントですってば。
で、そんなわたしがこの旅で好きになった歴史的人物がいる。
それは藤原隆家。
藤原隆家といえば、平安時代に貴族社会の頂点に立っていた藤原道長の甥である上に、一条天皇の皇后定子の弟という恵まれた身分の貴公子だ。
『大鏡』に「世の中のさがなもの」(喧嘩っ早い荒くれ者・世に知られたツッパリ野郎)と書かれた人物でもある。
わたしが知っていた彼のエピソードは以下のもの。
兄の伊周から、“花山法皇が自分の恋人のもとに通っているのでなんとかして欲しい”と相談を受けた隆家は、お抱えの武者をその女性のもとに向かわせて花山法皇一行を襲撃し、法皇の衣の袖を弓で射抜いてしまう。
花山法皇は無事だったものの、噂を聞き付けた道長は、この騒動を利用して政敵であった伊周・隆家兄弟を左遷した。
この話は、『栄花物語』に書かれたものであるが、隆家はとにかく無頼派の貴族であったのだ。
今で言うパリピの御曹司で、怖いもの知らずのイケイケ野郎って感じですな。
この隆家が何故か「刀伊(とい)の入寇」が勃発した時に、迎え撃つ総司令官となっている。
以前も書いたけど、「刀伊の入寇」は国境の島である対馬と壱岐に50隻もの賊船が来襲し、各地で放火や殺人を繰り返した末、博多への侵略を試みた事件であり、壱岐では148人が殺され、239人は捕虜として連れ去られた。
生き残ったのはわずか35人に過ぎなかったといわれている凄まじい事件。
そんな歴史的な大事件が起こった九州の太宰府に、何故か隆家がいたという歴史の不思議。
実は、ちょうどその頃隆家は目を怪我し、九州の大宰府に宋の名医がいると聞き、大宰権帥(だざいのごんのそち)への任官を望んで聞き入れられていたというのだ。
これぞ天の采配!
凄いな、神様。
残忍な侵略行為を行う正体不明の軍団に、対馬、壱岐、北部九州沿岸の人々は怯える。
賊来襲の報を聞くやいなや、隆家は自ら軍勢を指揮して博多の警固所に向かい、味方の士気を高め九州本土で賊を迎え撃ったが、隆家らも苦戦を強いられる。
刀伊は警固所に押し寄せ、筥崎宮(福岡市東区)に放火しようとしたが、その目論見は失敗に終わり、刀伊は対馬などに攻め込んでから、約1週間で撤退を余儀なくされた。
隆家は大宰府官人だけでなく、現地の豪族の協力により見事に刀伊を撃退したのである。
隆家、キミ、九州太宰府なんてところに突然現れて大活躍って・・・。
人間、苦労にさらされると渋みが増して一皮向けるって本当なのね。
知らない間にすっかり渋い男の中の男になったんだね。
おばちゃんは嬉しいよっ!(って、あんたは親戚か?)
ところが、刀伊の入寇の撃退後には、恩賞をめぐってひと悶着があった。
第一報から1週間後、大宰府にいる隆家から戦闘の終結と、勲功者の名前を列記した報告書が届いたが、公卿たちの反応は鈍く、恩賞に預かることができたのはたったの2名。
それも隆家と親交が深かった藤原実資(ふじわらのさねすけ)の献言があってようやく実現したものだった。
その後、高麗が日本の拉致被害者約270人を救出し、その送還のために日本へ使者を派遣したが、朝廷は使者をスパイだと勘ぐり、土産を持たせて早々に帰国させようとしたようだ。
非礼な対応に終始した朝廷に対し、隆家は自腹を切って高麗へ金300両を送ったと『大鏡』には記録されている。
自腹でお金を送るとか、その他の人にも褒章を与えるとか、お金に頓着しない感じがイイ。
やっぱりお育ちやお家柄がいい人は違うって感じ。
「若様、すっかり立派になられて。ジイは嬉しいですぞ」とかいう爺やがいそう。
戦後処理を終えた隆家は都へと戻ったが、自らは何の恩賞も要求することなく、官位も中納言のまま生涯を終えたという。
それもまたよし!
「刀伊の入寇」という異民族による襲撃事件を見事に阻止した隆家の名は、九州で語り継がれていく。
若い頃、一緒に暴れ回った。兄の伊周の嫡男の道雅は、荒くれて子孫も残さなかったのに対し、隆家の家系は大臣こそ出さなかったが、明治維新まで続いたという。
隆家ってこんなスッゴイ人生を送っていたんだね。
大臣になれなくても、そりゃ日本を守った人物として語り継がれるよね。
カッコよすぎじゃない?
隆家。
もうね、惚れますわ。
やっぱねえ、お育ちがいい無頼派っていうところもいいよね。
きっと隠せない上品さがあり、それでいて稚気があるっていう大好きなキャラ。(知らんけど)
惚れてまうやろ!
隆家は権力者の道長に対して一歩も引かない度胸でいろいろなエピソードを残し、道長も一目置いていたという。
民を守るため、国を守るため、果敢に戦った壱岐のヒーロー隆家は、わたしの胸に熱い足跡を残したのだった。
気がつくと船の窓からは博多の煌びやかな港の景色が広がっている。

「頑張ってくれてありがとう、隆家!ありがとう、名もなき兵士達!」とつぶやいたわたしなのでした。
つづく